再び意味付けよと叫ぶ声の行方は
何かに呼びかけられた気がするときというのがあります。
自分の名前が呼ばれたわけではないので、あくまでも気がするというだけですが、まあそういうときは大体気のせいなので、いちいちそういうものに愚直に返事をするわけにはいきません。
ただ、それでも呼ばれた気がした経験というものは、誰しもひとつは持っているものだと思います。そんなとき、一体何が呼んでいるのでしょうか。
それは言葉では上手く表現できないのですが、何か道に置いていかれたものが、もう一度こっちを見ろと言っていて、そこでたまたま目が合ってしまったような、そんな情景が思い浮かぶのです。
別にそれは何だっていいです。昔の思い出が不意によぎったり、あの日聞いた言葉や話した言葉の意味が突然わかったり、駅前のデッキで見かけた鳩と前に会ったような気がしたり、一万円札一枚をひたすら数えてぶつぶつ何か喋っているおっちゃんを見かけたり、ふと夜中に外にでると風が気持ちよかったり。
多分そういうときに私は何かと目が合っていて、でもそれはあくまでもたまたまで、しかも別に向こうは目を合わしているわけでもないかもしれず、とどのつまりは向けられていない視線を感じて、呼ばれていない声を聞いているのかもしれない。
そういうものたちが呼ぶ声、向ける視線は、だいたい同じことをいっているような気がします。
再び意味付けよ、と。
しかし、結局のところ、誰も視線を向けてなどいないし、誰も私のことを呼んではいないのです。それは勘違いであり、目のない視線であり、声のない叫びです。ないものをあるように感じているだけで、ないものはないのだと思います。それは前提なのですが、それでも何か応えたい、示したい、とつい言いたくなってしまう。
それはおおいに無駄なことで、無意味なことなのでしょうが、それでも、だってだってと子どものように駄々をこねたくなるのです。
再び意味付けよと叫ぶ声の行方は、ようとして知れないのだけれど、私は確かにその声を聞いた気がして、置かれたものをひとつひとつ紐解いてゆく。
そうした営みに意味はなく、まるで知り合いの挨拶に応えるように、あらかじめ決められている事をあらかじめ決められているようになぞる。強くなってきた日差しで春の出発を知って、もう見えない背中に遅れて手を振るように、私は落ちているものを拾い上げては埃を払う。
これはなんなのだろうと、何度でも見てきたはずのものに、最初にそうされたように何度でも呼びかけるつもりで。