言葉の旅人、しかし三流

 もともと、私は何か書きたいことがあって書くということがない人間です。じゃあ何故書いているのかというと、たんに書かずにいられないので書いているというだけで、何か主張したいことがあるわけではありません。どちらかといえば、書くこと自体が目的で、何かを表現するための手段として書いているわけではないのです。

 私の中には言葉にできない何かがあって、他者の言葉の中にその形を見てしまうときというのがあります。それはもちろん他人の言葉なので、私の言葉にできない何かそのものの形はしていないのですが、どうしようもなくそう思ってしまう形をしているように見える、そうであってほしい言葉というのがあって、そこを始まりとしてしか私の何かを言葉にできないことがあります。

 何かを形にしたい欲といってもいいのかもしれません。ふわふわとしている何かをカチっとはめたい、浮いているものを地面に突き立てたい、置かれたものを元の場所に戻したい、あるべきものはあるべき場所へ。だけど、言葉にしようとしている何かというのは、もともと形なんて持っていなくて常に漂っているものなのでしょう。とりあえず形にしてみるけれど、どれもしっくりこないのです。

 ポルトガルの詩人で、フェルナンド・ペソアという人がいました。彼が書いた詩の中にこんなものがあります。「一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う」(平凡社ライブラリー『[新編]不穏の書、断章』p.21)。良い悪いとか、詩人に関する言葉であるということはおくとして、私が探しているのは、自分が感じねばならぬと思い込んでいる言葉なのだと思います。たぶん、自分が感じねばならぬと思い込んでいることを実際に感じてみたいのです。私だけでは行けない場所に、誰かの言葉を通して行ってみたいのです。

 私が夢の話を書いたりするのも、人の文章を引用したりするのも、根っこの部分にはこういうことがあるのだと思います。ですから、きっと私は詩人にはなれないのでしょう。かっこいいなあとは思うんですけどね。三流の言葉の旅人とかよくないですか。だめですかね。