そういう形の穴が空いていた

 名前も思い出せない歌、いつか嗅いだ花の香り、作り手のいない料理、膝上の猫の暖かさ、日々現れては消える心の機敏。

 何かが無くなったものだと気がつくために、私たちはあったはずのものがなくなる経験を必要としている。当たり前の話かもしれない。

 心に穴が空いたようだ、と言う。心に穴が空かないのは誰でも知っている。それでも、穴という言葉でしか伝わらない事態がある。

 穴を埋めるのは、日々の生活なのかもしれない。そうして、喪われたものの代わりに満たされたものがある。

 それは後付けの意味ではないだろうか。初めから何もなかったことを思い出すのだ。

 最初から穴は空いていたのだから、それを見て何を悲しむことがあるだろう。

 いや、それはきっと間違いだ。間違いなのだけれど、心の穴は意味で満たされてなお空洞であり、埋められているにも関わらず永遠に穴は塞がれない。

 そういう形の穴が空いていたと思い込んで、そこに意味を見出すならば、後は自分にも他人にも預かり知らぬことだと思うしかないではないか。

 それを見つめ続ける勇気を私は持っていない。