わからないから、川に向かって叫ぶんや

 相も変わらず、わからないことが多い世の中ですね。皆様は無事にお過ごしでしょうか。無事であれば結構、無事でなくてもそれはそれで結構、そんなことには頓着せずに、季節は春を迎えようとしているようです。それは少し寂しいことではありますが、その寂しさが寄り集まって、春が駆動して立ち上がるなら、それはそれで悪いことではないのかもしれません。別に良いことがあるわけでもありませんけれども、そんなものでしょう。季節は人のことを見ているのかもしれませんが。

 わからないことがあるとき、それをわかりたいと思うときがあります。でも、わかるというのは何なのでしょうね。何かをわかる、何かを見つける、何かに名前をつける、それは私がしていることなのでしょうか。もちろん、私がいなければそもそもその現象自体が成立しないので、そういう次元においては、私がすべての始まりであり、全ての元凶だとは思います。ただ、わからないことをわかるのは私なのか、それとも、わからないことが私をわかるのか、そこで何か引っかかるものがあるのです。

 道を歩いていると、色々なものがあります。郵便ポスト、酒屋、コンビニ、人間、青空、名前も知らない鳥、猫、片方だけの手袋、電車、側溝、春の気配、そよぐ枝、車、陰と日向。そういうものには、名前がついています。ひとつひとつ、何を見たとか、これがあったとかいうことができます。けれども、私が見なかったもの、私が無視したもの、私がわからなかったもの、そういうものは道にごろごろ転がっている。何かをわかりたいというのは、そういうものたちに呼びかけたり、名前をつけたり、視線を向けることなのかもしれませんが、そもそもわからないということさえわからなくて、誰にも知られずに転がっているもの、そういうものに語りかけるためにはどうすればいいのでしょうか。

 ただ、ここで考えます。わからないものは、私にわかられたいと思っているとは限らないのではないか。別に気がついて欲しくない、声などかけて欲しくない、ただ道に転がっていたいのだ、そう思っているのではないか。そうすると、わかりたいという私の気持ちは、わかられたくないというものの気持ちを損なっていることになります。その線を越えてわかろうとすることは、私は悪いことではないかと思っています。だから、わかること、わかりやすいことが善いことであるようにいわれていると、不思議な気持ちになります。

 それでも何かをわかりたいときは、悪意を持ってわかろうとするしかありません。もちろん、あらかじめ傷つける、破壊する、損なうつもりでわかろうとするのでなくて、わかろうとすることにそれらがつきまとうことを、覚悟した上でわかろうとする、という意味です。悪意を持って悪いことするから許されることなんてなくて、悪意を持って悪いことをするから許されないのだ、そういう話なのだと思います。

 ここまでを前提とした上で、それでもわかりたい、言葉にしたい、気がつきたいとき、私はどうするべきなのでしょうか。それこそわからないことなんですけれど、もしかしたら、私がわかるのではなく、わからないものが私をわかることが、ひとつの道なのではないかとは思っています。そのためには待たないといけないのですけど、何もしなくていいわけではなくて、わからないものに呼ばれる私でいなければいけないのだと思います。わかる場所ではなく、わからない場所にいなくてはいけないのだと。

 わからなさを、川に向かって叫ぶくらいが丁度いいのかもしれません。海だと広すぎるような気がします。うまくいけば、わからないものが私に気がついてくれるかもしれませんし、向こうから声をかけてきたのならしめたものです。なんだか吸血鬼みたいですけど、悪いことをしているのですから、それはそれで構わないとは思います。私は、川に向かって叫んでいる人には、あまりお近づきになりたいとは思いませんけれど。