一度も見なかった夢を、私ではない誰かが思い出す

 私が一度も見なかった夢を思い出すのは、私ではないのかもしれない。そんな考えが頭をよぎりました。言葉にすると、当たり前のことかもしれません。別に、その誰かは誰だっていいです。人間でもいいし、宇宙人でもいいし、猫でも犬でも鳥でも、石ころでもいいです。大事なのは、私ではない何かであるというその一点だけです。私は、私が見る夢しか思い出せないのかもしれない。一度も見たことのない夢を、私自身は見たいと思いますが、それを見るのはたぶん私ではないのでしょう。

 ときどき思うことなのですが、私が見た夢というのは、私のものなのでしょうか。理屈としては、私のものであること以外ありえないのが夢というものです。私は、今まで自分が見た夢以外を思い出したことは、一度だってありません。ただ、本当にそうなのだろうか?とも思います。自分が見た夢のことを思い出していると、言葉にすること自体で夢を毀損していくように感じることがあります。これは別に夢に限ったことではなく、今の自分の気分のような、夢よりは確かに感じられると思われるようなことでもそうです。形にすると壊れていきます。壊すことでしか夢を言葉にする手段がないのだと思います。

 とはいえ、たとえ夢を壊して言葉をつくっても、それは絶対に人とは共有できないものです。私が見た夢を言葉にしても、それは夢そのものとは似ても似つかないものであるということでもそうですし、それが人に見られたところで、私が見たものと人が見たものは違うものである、ということでもそうです。あなたと私が同じものを見ている保証がどこにもないのです。そういう意味では、夢が自分のものではない、ということはありえないのかもしれません。人と共有できないのなら、自分のものでしかなくなる。

 ただ、私はここでどうしても駄々をこねたくなってしまいます。同じものを見ている保証がないのなら、同じものを見ていない保証だってないじゃないか、と。何かを形にせずにはいられないのは、何かを残したいというよりも、何かを忘れたい、ここに置いていきたいという感情なのではないのでしょうか。痕跡を残したいのではなく、もう持っていたくないのです、面倒くさいのです。人から見れば、どちらも変わらないのかもしれませんが。そうやって置いていかれたものがあり、それは誰の目にもふれるものとなりますが、誰もそれを見ることはなくなって、距離だけがどんどん離れていきます。近くのものはどうしたってよく見えますが、遠くのものはよく見えません。もはや、同じものを見ている見ていないというのが通じない程の距離、同じか同じでないか、そんなことが及びもしない隔たり。共有の外側に置かれた夢を考えてみてください。

 そこでふと思うのです、自分でも思い出せない遠く遠くに打ち捨てられた夢。自分のものか人のものか、夢かどうかも判然としないもの。その遠さ、隔たりによって思い出されなくなるもの。そこで終わってしまった夢。その地点ではじめて、きっと私の知らない誰かが、その夢を思い出すことができるのではないか、と。