土管で体育座りすると時間が遠くなる

 小学校の時、校庭に土管がありました。ドラえもんの空き地にあるような石造りのやつで、マリオが入るような鉄製のやつではありません。登って遊べる砂山の遊具を貫通するように置いてあって、直接日光が当たらないからか、いつも中に入るとひんやりとしています。僕の小学校には教室にクーラーが付いていなかったので、夏場は避暑地として使っていました。

 土管の中は暗いので、入り口と出口(特に決まっていないので、自分が入ってきた方が入り口になります)が明るく見えます。自分がいるところは暗いのに、見ているところが明るいと不思議な気持ちになります。丸く切り取られた風景を、体育座りをしてずっと見ていると、さっきまで自分がいた明るい場所が、余所余所しく思えてきます。遠く感じる、と言ってもいいかもしれません。

 土管に限らず、トンネルでも感じることですが、入り口と出口が塞がれているわけでもないのに、筒の中と外と言うのは、明確に分かれていて、しかも遠いのです。その遠さというのは、空間的な遠さではなく時間的な遠さなのですが、はて、時間的な遠さとはなんなのでしょうか。過去や未来のことを言うのに、遠い昔とか近い将来とか言います。時間にも距離があって、時間を走ったり、時間に寝転がれたりするのでしょうか?今の僕に明確な答えはありませんが、考えてみると面白そうです。出来るならば、僕は時間に寝転がってみたいです。

 話が逸れました。時間的な遠さというのは、たぶん土管の中が静止していることに起因しているような気がします。土管の中というか、違う空間と空間を繋ぐ通路の中、が静止しているということです。通路とか、廊下とか、道の真ん中、ふと足を止めて周りを見渡すと、何もかもが遠く見えることがあります。その時、僕は道の途中で止まっているのですが、その遠さというのは悪いものではありません。遠くから見ると美しく見えるものもあります。土管の中の涼しさ、というのもそういうものです。

 出来るならば、遠くで寝転がって、美しいものをぼけっと見ていたい。僕にとって思い出すということは、そういう一面が大きいです。