わからないだけで書く

 何かを書こうとしているとき、何を書こうとしているのか、僕自身よくわかっていません。そもそも書きたいことなんて特にないのです。誰かに見られたところで、良くも悪くも何の影響も与えないであろう文章を、なぜ書こうとしているのかなんてわかるわけがありません。毒にも薬にもならない、呼吸のように生きるために必要なわけでもない、本当には必要のないことが何の必要に駆られて書かれているのか、誰か教えてください。

 「何かを書こうとなんてしなければいい」と言われれば、それはまったくその通りでぐうの音も出ませんが、それでも現に書いてしまっているのです。「本当はきっと書きたいことがあるんだろう、むしろ、書くことで書きたいことを探しているんじゃないか?」こういう風に聞かれれば、一理はあると思いますが、なぜ「その書きたいことを書くために書こうとしているのか」が相変わらずわかりません。誰かに強制されているわけではないのです。

 ただ、何がか書かれることを強いており、何も書くことがなくても書かずにはおれないときがあって、そういうときには何もわからないのに書いてしまう。別に夢遊病のように意識をしていないのに気がついたら文章が出来ていたとか、何か手が勝手に動いてキーボードを打っているのだとか、そういう話がしたいわけではないのです。言葉を選んでいるのは僕ですし、実際に画面上に文字をタイプしているのも僕ですし、書かれたものに日本語として意味が通るならば、それは僕が責任を持って書いた僕の言葉です。そこはわかっているつもりです。

 ですが、そもそも書こうとした始まりがいつも不透明なのです。自分で書いているのはわかるのですが、なぜ書いているのかがわからないのです。だから、書きたいことがあって書く人の気持ちが本当にわからない。もちろん、文字が人に何かを伝達するための手段であるということはわかっています。親が子供にむかって「今日の夕飯は冷蔵庫に入っています」とメモを残したとき、親は子供に冷蔵庫の中の夕飯を食べてもらいたいと思ってメモを残した。その使い方はわかります。僕だってそういう書き方はもちろんしますし、そのときに書こうとした始まりが不鮮明なんてことはありません。子供にご飯を食べさせてあげたいのです。

 ここで問題にしたいのは、誰にむかって言っているわけでもない言葉です。「あなたは自分に話しかけているだけではないのですか?それなら、それはいくらあなたがわからないと言っても、人から見たらあなたは自分と話をしたいと思っているーー独り言をするために独り言をしているーーように見えますよ。」もし、そう言う人がいれば、これは的を射た答えかもしれません。独り言をするために書いている、それはそうかもしれません。ただ、なぜ独り言をする必要があるのか、ということです。寂しいからでしょうか?自分に構って欲しいのでしょうか?誰にむかってでもない言葉がどこかの誰かに届いて欲しいからでしょうか?必要のないことを切実に必要としているからでしょうか?だって、何も書かなくたって何も変わりませんよ。これはほんまに。

 なぜなのでしょうね?

 逆に考えるなら、そのわからなさだけが僕に書くことを強いているのかもしれません。なぜかわからないけど書いているのではなく、なぜかわからないからこそ書けているのかもしれません。

 でも、わからないのって嫌ですよ。ちょっとでもわかってる顔がしたいです。俯きながら、いつもわからないわからないって言ってるのって、カッコ悪いじゃないですか。ねえ。