残影

書くなといわれ

わたしは書いた

手の届く広さで

微かな音を聞く

手放したのは言葉

吹き抜けたのも言葉

開いたてのひらを

じっと見つめ

その痕跡を

いつかの景色

いつかの声

思い出せ

忘れるために

刻み込め

手放さないため

わたしを見ている

あなたのために

残された影をひとつ

覚めない夢、どん底としての今

 永井均さんという哲学者の本に『私・今・そして神』というものがあります。その中に、夢を思い出すことについて書かれた箇所があるのですが、そこを読んでいて、一度も見ていない夢を思い出すことについて書きたくなったので、少し長くなりますが引用してみます。

  夢を見ているとき、われわれはそれが後

 で思い出されることを意識していない。そ

 れは突如として思い出される。かりにもし

 夢を見ているときに後で思い出されると思

 っていたとしても、その思いと思い出しと

 は結びついていない。

  現実に生きているとき、われわれはすで

 にそれが後で思い出されることを知ってい

 る。思い出される可能性があらかじめ知ら

 れていて、それが思い出される。現在は過

 去になったときはじめて過去だとわかるの

 ではなく、現在であるその時すでにして必

 ず過去になることが知られている。つまり

 、現実の現在は、可能な現在のひとつにす

 ぎないことが、その現場においてあらかじ

 め知られているわけだ。現在を可能な現在

 としての過去や未来の視点から位置づける

 超越論的構造が体験自体に宿っている。

  永井均『私・今・そして神』(講談社現代

 新書、2004年)p.140

 夢というのは、夢を見ている最中に思い出すことはできません。たとえ、夢の中で夢を思い出すだろうと思っていても、それはあくまでも夢の中で、後になって夢を思い出そうとしていた夢を見ていた、という形に回収されてしまいます。夢の外部から夢を夢だと位置づける視点、つまり夢から覚める必要があって、そこではじめて夢は思い出されたということになるのです。もしそれがないのなら、夢はもはや思い出される必要はなくなって、それは現実と呼ばれることになるのでしょう。そのことが、思い出されるだろうという思いと、実際に夢が思い出されることが結びついていない、ということの意味なのだと思います。間違っていたらごめんなさい。

 対して、現実の現在が後で思い出されることを含んでいるというのは、現在というのが過去や未来との対比から、常に外部の視点を生み出し続けているということなのだと思います。たとえば、今さっき私は喫茶店の中で珈琲をすすりながら、ぼんやりとしていましたが、それを文章にして記述できる、つまり思い出せるということは、私が「さっきの今の外の視点」である「この文章を書いている今」にいるからです。夢の話に関連させて言うなら、さっき見ていた夢を、夢から覚めて思い出しているということです。

 ただ、ここまで考えてみると不思議なことになってしまいます。さっき見ていたのが夢なら、今さっきの夢を思い出している今も夢の中なのだから、夢の中では夢を思い出せないという論と矛盾しているのではないか、ということです。この矛盾が正しければ、夢と現実は変わらないことになってしまう。しかし、夢と現実は明白に区別されます。ここで夢と現実を分けているものが、先の引用文の最後に書かれていた、現在の超越論的構造なのだと思います。しつこく夢の話と関連させていうなら、現在というのは過去や未来という夢を内包したひとつの巨大な決して覚めない夢だと思うのです。そして、この決して覚めない夢の中で、私は今生きている。

 どこまでも覚め続ける夢というものを想像してみて下さい。恐らくそういうものは悪夢と呼ばれるのだと思いますが、終わりがない夢というのは、まさに今私が刻々と経験しているところのものです。しかし、それが悪夢とならないのは、もうこれ以上は掘れない地面、どん底の今に突き当たるからです。そこを起点として、常に夢は夢ではない現在としてそこにあることになります。今がそのうち覚める夢なのだと言うことを、決して覚めない夢が担保している、そういう構造が超越論的であることの意味なのだと思います。これも間違っていたらごめんなさい。

 さて、本当はここから決して覚めることのない夢を見ているのなら、この夢以外の夢を思い出すことはできないのか、一度も私の見ていない夢を思い出すことはできないのか、ということを書いてみたかったのですが、物を書く体力が尽きてしまったので、今回はここまでにしておきます。

 一度も見ていない夢を見て思い出すこと、決して覚めない夢から覚めてまた夢を見ること、そういうことが人には出来ると思うんですけどね。今しばらくはどん底でじたばたしているしか他になさそうです。

言葉の旅人、しかし三流

 もともと、私は何か書きたいことがあって書くということがない人間です。じゃあ何故書いているのかというと、たんに書かずにいられないので書いているというだけで、何か主張したいことがあるわけではありません。どちらかといえば、書くこと自体が目的で、何かを表現するための手段として書いているわけではないのです。

 私の中には言葉にできない何かがあって、他者の言葉の中にその形を見てしまうときというのがあります。それはもちろん他人の言葉なので、私の言葉にできない何かそのものの形はしていないのですが、どうしようもなくそう思ってしまう形をしているように見える、そうであってほしい言葉というのがあって、そこを始まりとしてしか私の何かを言葉にできないことがあります。

 何かを形にしたい欲といってもいいのかもしれません。ふわふわとしている何かをカチっとはめたい、浮いているものを地面に突き立てたい、置かれたものを元の場所に戻したい、あるべきものはあるべき場所へ。だけど、言葉にしようとしている何かというのは、もともと形なんて持っていなくて常に漂っているものなのでしょう。とりあえず形にしてみるけれど、どれもしっくりこないのです。

 ポルトガルの詩人で、フェルナンド・ペソアという人がいました。彼が書いた詩の中にこんなものがあります。「一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う」(平凡社ライブラリー『[新編]不穏の書、断章』p.21)。良い悪いとか、詩人に関する言葉であるということはおくとして、私が探しているのは、自分が感じねばならぬと思い込んでいる言葉なのだと思います。たぶん、自分が感じねばならぬと思い込んでいることを実際に感じてみたいのです。私だけでは行けない場所に、誰かの言葉を通して行ってみたいのです。

 私が夢の話を書いたりするのも、人の文章を引用したりするのも、根っこの部分にはこういうことがあるのだと思います。ですから、きっと私は詩人にはなれないのでしょう。かっこいいなあとは思うんですけどね。三流の言葉の旅人とかよくないですか。だめですかね。

 

ぼんやりしていたことに

はっと 気がついた

ここはどこだろう

どれぐらい こうしていたのか

目が覚めると

知らないところにいて

知らないひとたちと

知らないことをしている

あれ 次はなにをするのだろう

何もわからず わからなくて

焦りが 世界を白くする

自分が期待されているものも

自分が披露できるものも

煙のように掴めず

宙にただよう可能性は

どこにもぼくを連れて行かない

これはなんだ!

これは俺ではない!

俺を返せ!早く元に戻せ!

誰にむかって言ってるの?

ぼくはぼくだろう?

ぼくでもないぼくだ

さあ これからが本番

これは一度も見なかった夢ですから

言葉

言葉に助けられ

言葉に支えられ

ここまで歩いてきた

ずっと探している言葉

わたしだけの言葉

どれだけの言葉を写せば

わたしの言葉を見つけられるのか

言葉は訪れ去っていく

内から湧き出る言葉など

何一つとしてないわたしに

誰かが訪れ去っていく

(待ってくれ 行かないでくれ)

書きだした言葉が

生まれては死んでいく

(待ってくれ 死なないでくれ)

わたしはいつも見ている

言葉よ

どうかわたしを見ていてくれ

わからないだけで書く

 何かを書こうとしているとき、何を書こうとしているのか、僕自身よくわかっていません。そもそも書きたいことなんて特にないのです。誰かに見られたところで、良くも悪くも何の影響も与えないであろう文章を、なぜ書こうとしているのかなんてわかるわけがありません。毒にも薬にもならない、呼吸のように生きるために必要なわけでもない、本当には必要のないことが何の必要に駆られて書かれているのか、誰か教えてください。

 「何かを書こうとなんてしなければいい」と言われれば、それはまったくその通りでぐうの音も出ませんが、それでも現に書いてしまっているのです。「本当はきっと書きたいことがあるんだろう、むしろ、書くことで書きたいことを探しているんじゃないか?」こういう風に聞かれれば、一理はあると思いますが、なぜ「その書きたいことを書くために書こうとしているのか」が相変わらずわかりません。誰かに強制されているわけではないのです。

 ただ、何がか書かれることを強いており、何も書くことがなくても書かずにはおれないときがあって、そういうときには何もわからないのに書いてしまう。別に夢遊病のように意識をしていないのに気がついたら文章が出来ていたとか、何か手が勝手に動いてキーボードを打っているのだとか、そういう話がしたいわけではないのです。言葉を選んでいるのは僕ですし、実際に画面上に文字をタイプしているのも僕ですし、書かれたものに日本語として意味が通るならば、それは僕が責任を持って書いた僕の言葉です。そこはわかっているつもりです。

 ですが、そもそも書こうとした始まりがいつも不透明なのです。自分で書いているのはわかるのですが、なぜ書いているのかがわからないのです。だから、書きたいことがあって書く人の気持ちが本当にわからない。もちろん、文字が人に何かを伝達するための手段であるということはわかっています。親が子供にむかって「今日の夕飯は冷蔵庫に入っています」とメモを残したとき、親は子供に冷蔵庫の中の夕飯を食べてもらいたいと思ってメモを残した。その使い方はわかります。僕だってそういう書き方はもちろんしますし、そのときに書こうとした始まりが不鮮明なんてことはありません。子供にご飯を食べさせてあげたいのです。

 ここで問題にしたいのは、誰にむかって言っているわけでもない言葉です。「あなたは自分に話しかけているだけではないのですか?それなら、それはいくらあなたがわからないと言っても、人から見たらあなたは自分と話をしたいと思っているーー独り言をするために独り言をしているーーように見えますよ。」もし、そう言う人がいれば、これは的を射た答えかもしれません。独り言をするために書いている、それはそうかもしれません。ただ、なぜ独り言をする必要があるのか、ということです。寂しいからでしょうか?自分に構って欲しいのでしょうか?誰にむかってでもない言葉がどこかの誰かに届いて欲しいからでしょうか?必要のないことを切実に必要としているからでしょうか?だって、何も書かなくたって何も変わりませんよ。これはほんまに。

 なぜなのでしょうね?

 逆に考えるなら、そのわからなさだけが僕に書くことを強いているのかもしれません。なぜかわからないけど書いているのではなく、なぜかわからないからこそ書けているのかもしれません。

 でも、わからないのって嫌ですよ。ちょっとでもわかってる顔がしたいです。俯きながら、いつもわからないわからないって言ってるのって、カッコ悪いじゃないですか。ねえ。

痛みで涙を流すとき

それはあなたの痛み

わたしは涙を見つめる

雫は表現の手段

痛みそのものはあなた

あなただけのもの

わたしも涙を流す

それはわたしの痛み

痛みは伝わったのではない

人の痛みを痛むなど

どうしてできるのか!

痛みを表現できるのは

一人だけなのだから

わたしは何もない痛みを奪う

それは誰のものでもない

雫は天から降ったのか

傘を広げて止むのを待つ