分かりやすさの破片で指が切れる

 一目見て分かる、そういうものが増えている気がします。

 「分からない」ことよりも、「分かる」ことの方が良いと思う人が増えたということなのでしょう。僕はそれが良いことだとも悪いことだとも思いません。たとえ分かったつもりであっても、それが切っ掛けとなってより分からなくなるということもあります。或いは、何かを分かったつもりになることで、安心して生きることができるということもあるでしょう。分からなさというのは、積み重なると場所をとるものです。一つ一つは小さくても、分からなさは分からなさを運んできてしまいますから、それに息苦しさを感じるならば、そんなものは手放してしまった方が良いとさえ思います。

 僕が一目見て分かるものに、微かな違和感を持っているのは、一目見て分かることは分かることなのかという思いがあるからです。これは、「分かる」ことを低く見ているというわけではありません。何が言いたいのかと言うと、「分かる」ことで「分からない」ことがどんどん増えているのではないか、ということです。分かるということは、分からないものを細切れにすることです。僕は、ものの分かり方には、「分からない」ものだと「分かる」ということも含まれると思っています。それは諦めなのかもしれませんが、一目見て分かるものというのは、そういう分かり方を最初から無かったことにしていないか、そんな風に思うのです。

 バラバラになってしまった分かりやすさの破片から、よく分からないものの全体を想像してみます。それは決して分からないのですが、それが分かることだとも思います。矛盾するようですが、元々はひとつだったのですから、そういう意味では一周回って、一目見て分かるものと言えるかもしれません。一目見て分かるよく分からないもの、そいうものが増えればもっと面白いのですが、破片で遊んでいて指を切らないように、せいぜい分かりにくさを抱きしめていようと、そんな風に思います。