読書の手前

 本を読まない人が増えたとは聞くけど、本が読めない人が増えたとはあまり聞かない。

 巷の書店で売っているブックガイドや読書術の類は、すでに本が読める人のためのものであって、本が読めない人のためにはならないだろう。問題はもっと手前の地点にあるからだ。

 別に本を読まない人に本を読めと言うつもりはない。僕は読書を強制されるのが嫌いだから。自分が嫌いなことを人にしろとは、とても言えない。ただ、本を読みたくても読めない人が増えたとするならば、やっぱりそれは問題なのだと思う。

 もちろん、本を読まなくても生きていける人の方が、世の中には多いのだと思うし、実際、本なしでは生きていけない人は、本なしで生きていける人よりも余程不健全なのだろう。

 それでも、本が読めないよりは読めた方がいいのではないか。

 読書というのは、僕にとっては横道だ。迂回と言ってもいいかもしれない。どちらにしろ、真っ当に生きるためには余分なものだと思っている。これは個人的な思いなので、もちろんそうではない人もいるのは分かる。真っ当に生きるために読書が必要であるならば、それに越したことはないし、僕もそんな生き方は正しいのだと思う。

 でも、そうじゃない。目的地にたどり着くのは正しいことなのだと思うけど、なぜ目的地にたどり着かなければいけないのか、という問題の方が、余程重要ではないのかと言いたいくなる。

 本は、思考の足跡、誰かの寄り道、たどり着けなかった場所であり、どこでもない場所に至った書き手の風景、そんなものではないかと思う。

 それを見るためには、読むしかないし、また書くしかない。

 その風景を、見知らぬ誰かに教えることが出来ればいいのだけど、そのためには、僕にまだまだ想像力が足りない。想像が文章をつくるのではなく、足りない想像力を文章が補ってくれるならと、そんな希望的観測をしながら、いつも何かを書こうと思い始める。