忘れ物の眼差し

 忘れ物が目立つようになった。

 これは私の忘れ物というわけではなく、他人の忘れ物を目にする機会が増えた、ということなのだけど、自分で気づいていないだけで、実はたくさんのものを忘れている可能性はある。

 可能性はある、というより事実たくさんのことを忘れながら生きているに違いないのだが、記憶を忘れるのと物を忘れるのは、やっぱり違うのだと思う。

 最近は、見た夢を起きたら忘れていることが多い。見たものを覚えていないのに、見たことは覚えているのが不思議な感じもする。考えてみれば、前の晩の夕食も時に定かではないことを思うと、不思議でも何でもないような気もするが。

 生きているのだから、きっと食べているのだろうと推測出来る様に、目覚めたのだから夢は見ているのだろう。

 夢は物ではないから、夢を忘れることを忘れ物をした、とは言わない。駅やお店や何かだと、忘れ物を集める場所がある。それにしてもいつまでも置いておけないのだから、処分されるか警察に届けられるのか。それでも、持ち主が現れない場合、やっぱり最終的にはどこか知らない場所に捨てられてしまうのだろう。よく知らないけど。

 とはいえ、例えば夢の遺失物管理センターなるものがあったとして、私はそこで自分の忘れた夢を取り戻せるのだろうか。そもそも、どうやって夢を確認するのか。「こんな感じの夢が届いてませんでした?」と聞こうにも、肝心の内容が忘れ物なのだから、どうしようもないのかもしれない。

 自分で見つけられないなら、後は見つけてもらうしかない。忘れた物から向けられる眼差しに対して、せいぜい「にんにく、にんにく」とでも呟く。

読書の手前

 本を読まない人が増えたとは聞くけど、本が読めない人が増えたとはあまり聞かない。

 巷の書店で売っているブックガイドや読書術の類は、すでに本が読める人のためのものであって、本が読めない人のためにはならないだろう。問題はもっと手前の地点にあるからだ。

 別に本を読まない人に本を読めと言うつもりはない。僕は読書を強制されるのが嫌いだから。自分が嫌いなことを人にしろとは、とても言えない。ただ、本を読みたくても読めない人が増えたとするならば、やっぱりそれは問題なのだと思う。

 もちろん、本を読まなくても生きていける人の方が、世の中には多いのだと思うし、実際、本なしでは生きていけない人は、本なしで生きていける人よりも余程不健全なのだろう。

 それでも、本が読めないよりは読めた方がいいのではないか。

 読書というのは、僕にとっては横道だ。迂回と言ってもいいかもしれない。どちらにしろ、真っ当に生きるためには余分なものだと思っている。これは個人的な思いなので、もちろんそうではない人もいるのは分かる。真っ当に生きるために読書が必要であるならば、それに越したことはないし、僕もそんな生き方は正しいのだと思う。

 でも、そうじゃない。目的地にたどり着くのは正しいことなのだと思うけど、なぜ目的地にたどり着かなければいけないのか、という問題の方が、余程重要ではないのかと言いたいくなる。

 本は、思考の足跡、誰かの寄り道、たどり着けなかった場所であり、どこでもない場所に至った書き手の風景、そんなものではないかと思う。

 それを見るためには、読むしかないし、また書くしかない。

 その風景を、見知らぬ誰かに教えることが出来ればいいのだけど、そのためには、僕にまだまだ想像力が足りない。想像が文章をつくるのではなく、足りない想像力を文章が補ってくれるならと、そんな希望的観測をしながら、いつも何かを書こうと思い始める。

生活が僕を歌っている

 冷蔵庫を開けた。

 卵ワンパック(残6個)、牛乳(残4分の1)、3日前に切った人参(1本分)、昨日切った茄子(1本分)、納豆ワンパック(残1)、絹豆腐ワンパック(残1)、もずく酢ワンパック(残3)、合わせ味噌ペットボトル式(半量)、めんつゆ(8割)、ポン酢小(少量)、田楽味噌チューブ(未開封)。

 続いて現状を確認。

 ご飯(炊けていない、冷凍もない、備蓄は十分)、食パン(冷凍5枚、しかし今はご飯の気分)、大根半分(そろそろやばいかもしれない)、味付きお揚げ振り掛けタイプ(半量)。

 炊飯器は早炊きで20分。考えている時間はない。

 ああ、生活が僕を歌っている。

 僕は歌うように生活出来ているだろうか?

自分で拾うために捨てられた言葉

 好きなことを書けばいい、ということは簡単ですが、実際に何もかも自由に書こうとしても、僕の場合は何も書くことができません。何度か日記でも書いていますが、特に書きたいことというのがないのです。それでは、今書いているような文章をなぜ書いているのかというと、それは書かなければいけないような気がするからです。

 何かに書かされているとまでいってしまうと、少し言い過ぎな気がします。ただ、書きたいから書いているというわけではないのです。これも何度か日記で書いていますが、主張したいことがあって書くのではなく、とりとめなく頭の中をぐるぐる往復している思考を、ここに置いていきたいのです。端的に言うと、これ以上ものを考えるのが面倒くさいので、とりあえず形にしておいて、その辺に捨てていきたいのです。思考の不法投棄ですね(ゴミ出しの曜日が決まっているのならきちんとルールを守って捨てますが、自治体にそんな問い合わせをしたら現実のゴミを回収してもらえなくなりそうなので、今まで試したことはありません)。

 そんな動機で文章を書いているので、楽しく文章を書く、ということに憧れたりすることもあります。私自身は、小さい頃からずっと本の虫だったというわけではないので、他人の文章に触れた量というのもたかだか知れています。ですが、それでも、心を動かされた文章や言い回しの楽しい文章、理由はよくわからないけれど引きつけられる文章、そういうものを読んで、私も何かの間違いでそんな文章が書ければいいな、とまったく思っていないかというと嘘になります。ただ、人の心をつくるために文章を書くことと、自分の思考を捨てるために文章を書くことは、やっぱり真逆の営みであるのではないかと思うのです。

 それでも、もしかしたら、そこに違いはないのかもしれないと、そんな風につい考えてしまいます。誰しも一人では抱えきれない思いがあり、一人で感じることが重荷である風景があり、言葉にそれを託しているのではないか、と。

 それは綺麗なものばかりではないし、道に捨てられたビニール傘のようなものかもしれません。人を傷つける鋭利な刃物のようなものかもしれませんし、人が避けて通るような生ゴミみたいなものかもしれません。それは本当のことかもしれないし、嘘かもしれない。善意も悪意もまぜこぜになって、道にはよくわからないものばかりが転がっています。

 それが、私にはとても不思議に思えるときがあり、思わず拾ってしげしげと眺めては、懐に入れてみたり、またもとの場所に置いてきたり、遠くへ投げてみたりして、また何か書かなければいけないような気になっていくのです。

 もしかしたら、その中には、自分で拾うために捨てていかれたものがあるのかもしれません。

考えるな!チキンカレーを食え!

 抽象的な思考ばかりしていると、目の前にある具体的な物の姿が見えなくなってしまう。別にそれが悪いことだと言いたいわけではないのだけれど、具体的な物の姿が見えなくなってしまうと、それを考えている者の姿もどこかぼやけてくるような気がする。

 もちろん、思考されている以上は、具体的などこかの誰かが考えているには違いないのだろう。しかし、見たことも会ったこともない人が考えたことよりも、昨日吉野家で牛丼に温玉をトッピングしていた隣の人が考えたことの方が、余程はっきりしているのではないか。

 私自身は、どうにもぼんやりしている方で、この前作ったチキンカレーはおいしかったなあ、ということを考えるよりも、読んでいる文章の行間に思考を漂わせたり、今朝見た夢にどっぷり浸かっている方が好きだ。

 だからこそ、それだけではいけないのだという気もしている。月並みな言い方かもしれないけれど、抽象的な考えと言うのは、それを考えている具体的な人間の裏打ちがあってこそ、人の心を動かすものだし、具体的な人間だけでは、抽象的な他人の心を動かすことができない。カレーがおいしかったからなんやねん、という話だ。

 ともすると、「じゃあ具体的と抽象的を合体させれば最強じゃん!」と思ってしまうのだけど、それも違うのではないかと言いたいくなる。合わせるのではなくて、同時にある。具体的と抽象的が、何となく居心地が悪そうにしていながら、同じ場所に存在しているということが大事なのだと思う。いつでもお互いに文句が言えるような距離感で。

 でも、それをどうすればいいのかということはわからない。試行錯誤しながら書き続けるしかないのだろうとは思う。

 手始めに、自分自身に「考えるな!チキンカレーを食え!」と言い聞かせてみるか。

誰でもないだれかのために、どうか道にパンくずを

 思い出というものが、自分の内に含まれているものでないのだとしたら、果たして私はどこから何を思い出していて、この思い出とはいったい誰の記憶なのか。

 私の記憶というものは、思い出にとってみれば欠くことのできない要素であるような気がします。実際そうなのでしょう。私がこの世界から消えてなくなってしまったら、私の思い出を思い出すものはいないように思えます。

 ただ、もしも私がいなくなった後に、私の思い出を思い出すものがいるとすれば、それは私ではない何かのはずです。それが私の思い出なのかを確認する術は最早ありませんが、私がもういないのなら、それは私以外の何かが思い出していることになる。

 では、私以外の何かが思い出した私の思い出というものは可能なのでしょうか?

 そもそも、私の思い出を私以外の何かが思い出すとはどういうことなのでしょう?

 最初の話に戻りますが、思い出が私の内に含まれるものだとしたら、私がいなくなれば思い出も消えてなくなるはずです。そう考えると、私以外の何かが私の思い出を思い出すためには、私の思い出は私の外になければ(私の思い出なのに!)いけない。でも、それは私の思い出ではなく、ただの思い出だといいたくなります。

 ただの思い出!そんなものがあるのでしょうか。誰の記憶とも結びついていない、人間から独立した思い出。逆に考えるならば、すべての人間と結びついているような思い出。いや、むしろ、もう誰も思い出すものがいなくなった後でも思い出は残るものなのでしょうか。人間がいなくなったら、思い出は消えてなくなり、誰かの夢も人生もなかったことになってしまうのでしょうか。

 すべてがなかったことになってしまうような、遠い遠い未来、今こんな風に考えている私もいなくなり、この記録もなくなり、文学も詩も文字も言葉も、名のある者が残した名文も、名も無き誰かが残した思いも、全部もう数えるのも馬鹿らしくなるくらい過去になってしまった後で、それでも何かが残っていて欲しいと私は思う。誰かは覚えていて欲しいと思う。

 そのために、誰でもない誰かのために、こうやって道にパンくずを撒いていることを、どうか許して欲しい。

再び意味付けよと叫ぶ声の行方は

 何かに呼びかけられた気がするときというのがあります。

 自分の名前が呼ばれたわけではないので、あくまでも気がするというだけですが、まあそういうときは大体気のせいなので、いちいちそういうものに愚直に返事をするわけにはいきません。

 ただ、それでも呼ばれた気がした経験というものは、誰しもひとつは持っているものだと思います。そんなとき、一体何が呼んでいるのでしょうか。

 それは言葉では上手く表現できないのですが、何か道に置いていかれたものが、もう一度こっちを見ろと言っていて、そこでたまたま目が合ってしまったような、そんな情景が思い浮かぶのです。

 別にそれは何だっていいです。昔の思い出が不意によぎったり、あの日聞いた言葉や話した言葉の意味が突然わかったり、駅前のデッキで見かけた鳩と前に会ったような気がしたり、一万円札一枚をひたすら数えてぶつぶつ何か喋っているおっちゃんを見かけたり、ふと夜中に外にでると風が気持ちよかったり。

 多分そういうときに私は何かと目が合っていて、でもそれはあくまでもたまたまで、しかも別に向こうは目を合わしているわけでもないかもしれず、とどのつまりは向けられていない視線を感じて、呼ばれていない声を聞いているのかもしれない。

 そういうものたちが呼ぶ声、向ける視線は、だいたい同じことをいっているような気がします。

 再び意味付けよ、と。

 しかし、結局のところ、誰も視線を向けてなどいないし、誰も私のことを呼んではいないのです。それは勘違いであり、目のない視線であり、声のない叫びです。ないものをあるように感じているだけで、ないものはないのだと思います。それは前提なのですが、それでも何か応えたい、示したい、とつい言いたくなってしまう。

 それはおおいに無駄なことで、無意味なことなのでしょうが、それでも、だってだってと子どものように駄々をこねたくなるのです。

 再び意味付けよと叫ぶ声の行方は、ようとして知れないのだけれど、私は確かにその声を聞いた気がして、置かれたものをひとつひとつ紐解いてゆく。

 そうした営みに意味はなく、まるで知り合いの挨拶に応えるように、あらかじめ決められている事をあらかじめ決められているようになぞる。強くなってきた日差しで春の出発を知って、もう見えない背中に遅れて手を振るように、私は落ちているものを拾い上げては埃を払う。

 これはなんなのだろうと、何度でも見てきたはずのものに、最初にそうされたように何度でも呼びかけるつもりで。