明らかに間違っている桜

 私の記憶に残ってはいるが、それが現実のものではないとうすうす気がついている時、特に真偽を確かめる必要性もなく、時間だけが過ぎていって、よくわからない何かになることがある。

 それは、最初に起こった出来事とはもちろん異なっている。かといってすべてが虚構かと言われると、その出来事に纏わる記憶の文脈には、確からしい要素もあるからややこしい。

 例えば、そんな思い出のなかに、満開の桜が咲いている真っ白な公園というものがあり、その風景の美しさが、逆説的に記憶の真実味を脅かしている。

 綺麗な記憶は綺麗なままにしておく、という風に考えてみたとき、その動機というか、モチベーションみたいなものは、大切な何かを守りたいというよりは、ただただ確認するのが面倒くさいということもあるのだと思う。

 明らかに間違っている桜の記憶が腹を満たしてくれるわけではないのだけれど、春になる度に頭を掠めるほとんど夢のような風景を横目に、今日の夕飯の献立を考えるのはそこまで悪いことではないのかもしれない。