自分で拾うために捨てられた言葉

 好きなことを書けばいい、ということは簡単ですが、実際に何もかも自由に書こうとしても、僕の場合は何も書くことができません。何度か日記でも書いていますが、特に書きたいことというのがないのです。それでは、今書いているような文章をなぜ書いているのかというと、それは書かなければいけないような気がするからです。

 何かに書かされているとまでいってしまうと、少し言い過ぎな気がします。ただ、書きたいから書いているというわけではないのです。これも何度か日記で書いていますが、主張したいことがあって書くのではなく、とりとめなく頭の中をぐるぐる往復している思考を、ここに置いていきたいのです。端的に言うと、これ以上ものを考えるのが面倒くさいので、とりあえず形にしておいて、その辺に捨てていきたいのです。思考の不法投棄ですね(ゴミ出しの曜日が決まっているのならきちんとルールを守って捨てますが、自治体にそんな問い合わせをしたら現実のゴミを回収してもらえなくなりそうなので、今まで試したことはありません)。

 そんな動機で文章を書いているので、楽しく文章を書く、ということに憧れたりすることもあります。私自身は、小さい頃からずっと本の虫だったというわけではないので、他人の文章に触れた量というのもたかだか知れています。ですが、それでも、心を動かされた文章や言い回しの楽しい文章、理由はよくわからないけれど引きつけられる文章、そういうものを読んで、私も何かの間違いでそんな文章が書ければいいな、とまったく思っていないかというと嘘になります。ただ、人の心をつくるために文章を書くことと、自分の思考を捨てるために文章を書くことは、やっぱり真逆の営みであるのではないかと思うのです。

 それでも、もしかしたら、そこに違いはないのかもしれないと、そんな風につい考えてしまいます。誰しも一人では抱えきれない思いがあり、一人で感じることが重荷である風景があり、言葉にそれを託しているのではないか、と。

 それは綺麗なものばかりではないし、道に捨てられたビニール傘のようなものかもしれません。人を傷つける鋭利な刃物のようなものかもしれませんし、人が避けて通るような生ゴミみたいなものかもしれません。それは本当のことかもしれないし、嘘かもしれない。善意も悪意もまぜこぜになって、道にはよくわからないものばかりが転がっています。

 それが、私にはとても不思議に思えるときがあり、思わず拾ってしげしげと眺めては、懐に入れてみたり、またもとの場所に置いてきたり、遠くへ投げてみたりして、また何か書かなければいけないような気になっていくのです。

 もしかしたら、その中には、自分で拾うために捨てていかれたものがあるのかもしれません。