誰でもないだれかのために、どうか道にパンくずを

 思い出というものが、自分の内に含まれているものでないのだとしたら、果たして私はどこから何を思い出していて、この思い出とはいったい誰の記憶なのか。

 私の記憶というものは、思い出にとってみれば欠くことのできない要素であるような気がします。実際そうなのでしょう。私がこの世界から消えてなくなってしまったら、私の思い出を思い出すものはいないように思えます。

 ただ、もしも私がいなくなった後に、私の思い出を思い出すものがいるとすれば、それは私ではない何かのはずです。それが私の思い出なのかを確認する術は最早ありませんが、私がもういないのなら、それは私以外の何かが思い出していることになる。

 では、私以外の何かが思い出した私の思い出というものは可能なのでしょうか?

 そもそも、私の思い出を私以外の何かが思い出すとはどういうことなのでしょう?

 最初の話に戻りますが、思い出が私の内に含まれるものだとしたら、私がいなくなれば思い出も消えてなくなるはずです。そう考えると、私以外の何かが私の思い出を思い出すためには、私の思い出は私の外になければ(私の思い出なのに!)いけない。でも、それは私の思い出ではなく、ただの思い出だといいたくなります。

 ただの思い出!そんなものがあるのでしょうか。誰の記憶とも結びついていない、人間から独立した思い出。逆に考えるならば、すべての人間と結びついているような思い出。いや、むしろ、もう誰も思い出すものがいなくなった後でも思い出は残るものなのでしょうか。人間がいなくなったら、思い出は消えてなくなり、誰かの夢も人生もなかったことになってしまうのでしょうか。

 すべてがなかったことになってしまうような、遠い遠い未来、今こんな風に考えている私もいなくなり、この記録もなくなり、文学も詩も文字も言葉も、名のある者が残した名文も、名も無き誰かが残した思いも、全部もう数えるのも馬鹿らしくなるくらい過去になってしまった後で、それでも何かが残っていて欲しいと私は思う。誰かは覚えていて欲しいと思う。

 そのために、誰でもない誰かのために、こうやって道にパンくずを撒いていることを、どうか許して欲しい。