読めていなくても、目は見ている

 何かの文章を読んでいて、最後まで読んでもよくわからなかった、ということがあります。ただ、そういうときでも、最初から最後まで書かれていることが全くわからない、ということはありません(その場合は、わからないというよりは、読めないといったほうが適切かと思います)。

 大抵の場合、読んでわかる部分もあるし、読んでわからない部分もあったので、全体としての文章が持つ意味が把握できず、わからないという印象を持ってしまうのだと思います。とはいえ、ある文章の全体が持つ意味を、隅から隅までわからなければ、その文章を読んでわかったことにならないのかというと、それもまた極端な話だとは思います。

 たとえば、ある映画を見たとき、映画全体のストーリーや意味を把握できていなくても、印象に残ったシーンを元にして、誰かとその映画の話をする、ということはできます。一般的な意味では、それで十分に映画を見たといえるはずで、その作品の総合的な意味を読みとらなければ見たとはいえない、とは普通いわれません。

 結局、文章も映画の例と同じことなのかもしれません。ですが、こと文章になると、部分的な読解では許されないような、そんな雰囲気がある気がしてしまいます。本当にわかっているのか?と、言葉に問われているような気がするのです。

 もちろん、文章といっても様々なものがあり、一概にすべての文章がそうであるとはいえません。小説と詩は違うものですし、エッセイと論文は違うものです。別に私は何も問われていなくて、ただ理解の程度問題といってしまえばそれまでです。実際そうなのかもしれません。それでも、何かが引っかかっていて、それをうまく言語化することができないのです。

 本当に、何かを読むということは、わかることなのか、わからなくなることなのか、よくわからなくなります。いつも同じことをいっていますが、もしかしたら、わかることに対する恐れのようなものがあるのかもしれません。結局、わかったような気にはなっているんですけどね。無理矢理わかったことにしていることを見てしまうことが恐い。

 たとえ私がわからないと思っていても、この両目は文字を見て、他者の思考を追おうとしています。それが、どこか幽霊のように私の思考の後ろから、意味を越えてついてきている。それは他者なのか、私なのか、その区別をひどく曖昧にして、今日も勇気は埃をかぶったままです。