イカアイス(終)
一寸先も見えない闇だ。
厨房の奥らしきところから、歯医者のドリルのような、甲高い音が聞こえてくる。
一体何が起きているのだろう。イカのアイスなど最早どうでもよかった。が、それこそ後の祭りだ。退路はすでに断たれている。
「ちょっと、袖をつまんでていい?」
なりふり構わず、友人に尋ねた。
「ええよ。」
手を握るのは抵抗があったので、そっと袖をつまむ。何も見えなくても、そこに誰かがいてくれるというのは、存外ありがたいものだ。
「あんた、案外怖がりやな。」
「この状況で落ち着いてる君の方がどうかしてるよ。」
「アイス食べるだけやろ?」
「少しでいいから、その鈍感さを分けてくれ。」
多少落ち着いてきた。少し恥ずかしくなったので、つまんでいた指を離す。友人に借りをつくりすぎるのはよくない。
心頭滅却すれば火もまた涼し。怖さに見合った価値ある体験が待っている、と思おう。ほら、ドリルの音も止んだじゃないか。私はちょっと変わったアイスを食べて帰るんだ。大丈夫。大丈夫。
「へい!お待ち!イカアイス二丁!」
威勢のいい声が真横からして、心臓が止まった。瞬間的に手が出そうになったが、すんでのところで我慢する。単に身体が固まっていただけという話もあるが。
蓋が開くような音がすると、一瞬目が眩んだ。そこにはネオンのようにチカチカ点滅する、蛍光色の赤と緑が絡み合った物体が乗っていた。光の届かない水底で蠢く深海生物。どことなく剥き出しの内蔵が躍動しているような感覚を覚える。でも、きっとそれは暗闇に目が慣れていたせいだ。
「おお!かっこええ!」
「へい、ありがとうございます。どうぞゆっくりお召し上がりください。」
アイスに照らされた男は、板前風の人の良さそうな兄ちゃんだった。きっと、誰かに騙されてこんな店を開業してしまったのだろう。世の中には悪い人間も多いので、気をつけなければ。
「めっちゃ綺麗やん、このアイス。」
「とても食べ物には見えないが、確かに綺麗ではある。だけど、これのどこがイカアイスなんだよ。」
「イカしてるからやろ?」
邪悪な笑みを浮かべた友人に、私は一発蹴りを入れた。そして、目の前の物体にゆっくりと手を伸ばす。
ーーー
結局、予想していたゲテモノではなく、ぴかぴか光るアイスは見た目に反しておいしかった。この店が潰れる前に、夏休みにでも、もう一度友人と食べに来てもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、カレンダーで明日の日付を確認する。それから、私は布団に入った。
3月29日