私の時間、言葉の時間(Ⅱ)

 私の時間というのはなんなのでしょうか。それは今まで生きてきたすべての時間(=私の過去)を指すこともあるでしょうし、まさに今このとき、常に流れている今を指して、私の時間ということもあるでしょう。

 この時間というのは、人それぞれ全く違うように思えますが、本当にそうなのでしょうか。たとえば、偶然私と全く同じ年、同じ日、同じ時間に生まれた他人がいるとして、その人は私と全く同じ時間を生きていることになります。この場合、同じというのは生まれてから経過した時間が全く一緒だということです。もし、全時間年表というものがあったとしたら、少なくとも現時点までは、私とその人は同じ時間だけ生きていることになります。

 このことから、同じ時間を生きている、といってしまうことに私は違和感を覚えます。その同じ時間を生きている他人と、会ったことも話したこともなくても、同じ時間を生きているといえてしまうからです。では、その場合に、同じ時間と私がいいたくなくなるのは、なぜなのでしょうか。

 これは、たとえば、私がその人と会ったこともあり、話したことがあればいいのか、というとそういうわけでもありません。双子の場合を考えてみましょう。生まれたときも同じ、特別な事情がなければ育つ環境も一緒、仲が悪くなければ話もするし、同じ時間にご飯を食べて、同じ時間に寝て、同じ時間に起きる可能性が高い。そういう場合でも、同じ時間を生きているとは限らないのではないか、と私は思うのです。二人が同じ時間を生きていると認めているとしても、です。

 数字として捉えることができる時間、つまり、時計の時間以外にも、もっと捉えどころのない、幽霊のような時間があると思うのです。月並みな言い方になりますが、楽しい時間は速く流れ、苦しい時間は遅く流れる、というときの時間です。数字の上では同じ時間の経過でも、どうしても同じ時間の流れだといいたくない、あの時間です。私が、他者の時間に思いを馳せる、という言葉でいいたいのは、過ごした時間の内容的な相違ではなく、時間自体の持つ歩幅の相違で、内容の相違を他者と合わせることはできなくても、歩幅の相違は限りなく合わせることができるのではないか、と思うのです。

 ただ、数字として表すことができない相違が、合っているのか合っていないのか、確認するための手段がありません。それを合わせるというのは、どういうことなのか。そもそも、そんな相違なんてなくて、ただ数字の上で同じ時間といえる時間だけが、同じ時間と呼ばれうるという可能性もあります。私がこだわらなければ、何の問題もありませんから。

 それでも、そのあるかないかわからない時間の幻にこだわるために、もう少し言葉を費やしてみようと思います。

(続く)