私の時間、言葉の時間(Ⅰ)

 とある文章を読んでいて、自分の読み方が言葉の示している速さを追い越しているな、と感じて以来、私と言葉の時間について考えています。書こうとしてみても、あまりにも書けないので、なにがそんなに書けないのかを書こうとしていますが、たぶん、何も言えることはないと思います。それでも、何かを言おうとして失敗することも、記録としては有用だろうと思って書いています。

 結論として言いたいことは、私と言葉の時間は違うのだけれど、その経過、流れ方、速度、そこに息を合わせることはできて、そこで言葉の文意を越えた何かとして伝わるものがあるのではないか?ということです。というよりも、言葉の上に乗らない意味というものが、もしも他人に伝わるとしたら、それは言葉の時間に思いを馳せることでしか成し得ないのではないか、という思いがあります。

 では、言葉の時間に思いを馳せる、というのはどういうことなのでしょうか。書かれた言葉というのは、書き手の全体的な時間と分かちがたく結びついています。そして、書き手の時間と私の時間は違うものです(誤解のないようにいっておくと、私と他人は違う人間なのだから、その人の身になって言葉を読む、ということがいいたいのではありません。私と他人が違うのは当たり前のことです。そして、私が他人の身になって読むことは不可能です。私は他人にはなれないのですから。)。時間の違いといっても、カレンダーや時計で計れるような、そういう時間の違いではありません。私や他人に流れている時間、その経過や流れ方、速さのことです。書き手がどういう時間の流れの中で言葉を紡いでいたのか、そして、その言葉はどういう時間の流れに身をおいているのか。もし、他者の時間というものを、想像する余地があるのだとしたら、おそらく、そこが余白なのです。

(続く)