今すぐ言葉にしたくて、石に躓いて泣いた

 今すぐ何かを言葉にしたいときというのがあります。そういうときは、その何かを書こうとするわけですが、それがどんなものなのかは私自身わかっていないので、書いてみることでその形や感触をわかろうとするわけです。だから、書いているものが何かわからないで書いていて、書いたものを眺めて初めてそれが何かわかった気がしたり、相変わらずわからなかったりするわけです。そうした欲の根底に何があるのかと考えてみると、何かをわかりたいという気持ち、簡単に言うなら、好奇心・野次馬根性のようなものがあるのではないかと思います。

 この何かを知りたい気持ちというのは、なかなか曲者でして、よくよく目を凝らしたり、じっくりと耳を澄ませたりするのを邪魔するときがあります。わからない状態というのは気持ちが悪いもので、「今すぐわかりたいんだよ!」という気持ちになってしまうわけですね。その欲自体は、善くも悪くもないのだけれど、すぐに言葉にしてわかろうとすることで、取り逃してしまうものがあり、それが馬鹿にならないときがあるのだと思うのです。

 とはいえ、私の中の言葉にしたい欲を刺激するもの、というのは、言葉にしないと消えてしまうような気がしますし、実際、言葉にしないで忘れられたものなんて、私の中には(中というのも、おかしな話かもしれません。だってなくなってますものね。)たくさんあるのでしょう。すぐに言葉にしないと忘れてしまいますが、急いで形にしようとすると壊れてしまいます。それでも、言葉にして、その何かをわかろうとしないといけないのか、壊れることがわかっているのに、それでも形にして残さなければならないのか。私が何かを書くときに、もしも誰かから問われているものがあるとするならば、それを引き受けるつもりがあるのかどうか、なのかもしれません。

 ただ、そんな気持ちを持った上でも、何かを言葉にすることが、何かをわかろうとすることが、善いことなのか悪いことのなのか、私にはよくわかっていません。どちらかといえば、悪いことなのではないかとさえ思っています。悪いことと言うよりも、言葉のことをそれほど信用していないのかもしれません。私にとって、言葉というのは、道に転がっている石ころのようなものです。石ころだから、言葉には価値がないのだといいたいわけではありません。この石だと転んで痛い目にあえるかもしれない、と心のどこかで思っていて、恐らく私は躓きたいのです。

 誰かの通った道を歩いて石に躓くのか、知らない道を歩いて石に躓くのか、読むことは前者、書くことは後者に近いと思いますが、自分の書いたものを読んでいるとき、他人の言葉を読んで抜き書きしているとき、両者の区別は曖昧になります。どちらにしても、ずっと探しているものがあり、そこに至るための引っかかりや抵抗、そういうものとしてしか私は言葉を見ることができません。

 言い方を変えるなら、言葉はあくまでも私にとっては糧です。食物は眺めるものではなく、食べるものです。言葉を拝んで餓死をするつもりはない。あくまでもただ食べるだけです。そんなことですから、読む言葉も書く言葉も、そこに汲み取れないものがあると薄々気づいていながら、わかった気にしてしまう欲に逆らえません。それでも、その悪さを悪さとして受け止めて、周囲を窺いながら、おずおずと言葉を発することに、意味がないとは思いませんが。

 だから、急いで言葉にしようとして、石に躓いて泣くことは、私にとっては信じることのできるものです。その痛みや傷は、誰にも奪えません。私の石ころが誰かを躓かせたのなら、それはきっと悪いことなのだと思いますが、ごめんなさい、と言うしかありませんけれど。