殴られに行くと当然のように痛いけど、そこでUFOと邂逅する

 本を読むことについて考えています。

 読書をするということは、その語り手に殴られに行っているのではないか、と思うときがあります。もちろん、著者が人を殴ろうと思って語っているわけではありません(そういう著者もいるでしょうが)。あくまでも、私が殴らせているのです。売られてもいない喧嘩を買いにいっている。犬も歩けば棒に当たる。ふらふらしているのは常に私の方です。実際に、書評や感想なんかで著者に噛みつくという意味ではありません。書くことと同じくらい、読むことに能動的な意味があるのだとしたら、痛い目に遭わしてもらわずに何が読書か、と思うのです。殴ってもらえなければ、勝手にこっちが殴られてやればいい。

 語り手の思想や創作に影響を受けるとき、そこにまったく痛みが伴わないのならーーもちろん、殴られに行ってすかされることもありますし、優しく触れられて困惑することだってあるでしょうがーーそこには何のやりとりもなく、知り合いに会釈のひとつもするのとなんの違いもありません。もちろん、会釈は大事ですが、そういうことではないのです。読書というのは常に受け身的でありながら、常に能動的なものです。もしかしたらそうでないのかもしれないですが、少なくとも私はそう思いたい。

 わざわざ、自分から打たれに行っているのですから、当然のように痛いです。目からぴよぴよひよこちゃんが出るかもしれません。しばらく身体が動かなくなるかもしれません。でも、そこからなんです。倒れてボロボロになった身体でふと空を見上げたら、UFOとか見てしまうかもしれないんですよ。雀とか鳩とか布団とかと見間違えてたっていいんです。それは私が探していたものではないかもしれませんが、ここではないどこかからきて、不意に邂逅してしまった異質な何かです。それは良いとか悪いとかの外から、自分の見る景色を変えてしまうものです。

 もちろん、ずっと同じ景色を見たい、自分の見ている風景を共有したい、ということが悪いことだとは思いません。でも、痛みのない読書に一体どれほどの意味があるのか、とも思います。言葉で出来た傷の痛みーー世の中にはこんな痛みがあったのか、と感動したって、殴られた痛みに不満を持ったって、或いはこれは自分の痛みではないのか、と共感したって、その痛みの種類はどうだっていいのですがーーで、何かしらの跡がこの身に刻まれるわけです。それが幽霊のようにおぼろげに後からついてきたりもしますし、ショックで見てはいけないものを空に見てしまったりもします、それがすべてだとは言いませんが、それがないのなら、一秒後にも覚えていない雑談と何が違うと言うのでしょう。いや、一秒後には覚えていない雑談も、もちろん大事です。大事なんですけどね。

 それでも、私はUFOと邂逅したいと思っています。口をぽかんと開けて唖然としたいのです。