嘘を吐く

 嘘から出たまこと、という諺があります。嘘を吐いたつもりで話したことが本当に起こった、という状況を表した言葉です。

 例えば、有名な狼少年の話があります。退屈しのぎに、狼が来たぞと嘘を吐いて村の人たちを困らせていた少年が、いざ本当に狼がやってきた時に信じてもらえず、結末は諸説あるようですが、村の羊がみんな食べられてしまったり、少年自身が食べられてしまったりします。どちらにしても、嘘を吐くのは悪いことだ、という道徳を後世に伝える寓話なのでしょう。

 今考えているのは、嘘を吐くのが悪いことなのかどうかということではなく(嘘より本当のことが悪いなんてことは、その辺にいっぱい転がっていると個人的には思いますが)、嘘は本当に真実に〈なった〉のかということです。

 何が言いたいのかというと、どうも順番が逆なのではないかと思うのです。つまり、本当に本当のことなんていうものは、たいていは嘘としてしか表現できないものなのではないかと。嘘が言い過ぎだとしたら、不完全と言ってもいいです。何かを的確に捉えて描写しているつもりでも、後から考えてみたらあれは間違っていたと思うことなんてざらにあるでしょう。つまり、本当の(ことだと思っていた)ことが嘘になる、まことからでた嘘という、諺とは逆のパターンです(それが諺にならないのは、あまりにも当たり前のことだからでしょうね)。

 勿論、何かを正確に捉えていない不完全な言葉——もうそういう前提でその言葉の事を嘘とここでは言いますが——が悪いとは全く思っていませんし、そういう話がしたいのではありません。みんな本当のことを言えなんて言ってるけど、それって結局不完全な嘘でしかないのよ、と言いたいのではありません。僕は嘘を吐いて生きているわけですが、本当(だという感じのする)ことを言いたい気持ちがあります。それは、結局嘘しか吐けないんだけど、何かこう本当のものに触れたい、撫でてみたいといった好奇心みたいなもので、嘘なんだけど本当にしたいもの、本当なんだけど嘘でしか表せないものです。

 狼少年の文脈で言うなら、きっと少年は村の人にすげー!とかありがとう!とか助かったよ!とか言われたかったのだと思うんですね、たぶんですけど。そして、恐らくそれが本当のことになるように、祈るように嘘を吐いていたのではないかと思うのです。別に少年を褒めるつもりはありません。嘘はどこまでいっても嘘ですから。そこを間違えてはいけません。ただ、どこまでいっても嘘なはずだったのに——勿論目指すところは本当なのですが——何かの間違いで本当に本当を掘ってしまう嘘というのがあって、それは夢にも思わなかったことではなくて、ずっと夢見ていたものなのです。

 だから、嘘が真実になるなんてことはなくて、いつでも嘘は真実なのだと思います。ただ、その真実さがどうしようもなくショボいだけで。まあ、ショボい嘘でも続けていくしかありません。それで狼に嚙まれても、それはそれで本望でしょう。