灰色の匂い

 忘れられないけれど思い出せない。そんな匂いがあります。

 良い香りでもあるし悪臭でもあるし、もしくはどちらでもないけど、何となく記憶に染み着いてしまって、記憶と匂いが一緒になっている。つまり、記憶から匂ってくるというか、もう一度嗅いだら「これはあの時の匂いや!」とすぐ分かるというか、そういう匂いです。

 友だちの家の玄関で嗅いだひとんちの匂い、近所のスーパーの排水溝で嗅いだ生臭さ、通学路のパルプ工場から流れてくる鼻を突く異臭、ワックスを掛けた後の教室から漂う木の匂い、帰り道に少しだけ遠回りして見に行った金木犀の香り、美術室の絵の具の匂い、昔飼っていた金魚の鉢の魚臭さ、挙げていくときりがありません。

 そういう匂いの中で、記憶の中に印象深く残っているのが、昔住んでいたマンションの非常階段の匂いです。

 僕が昔住んでいたマンションは、非常階段が外に付いているのではなく、マンションの中を通っていました。普段は耐火性の分厚い扉で閉ざされているので、中は暗いし埃っぽいし寒いです。別に施錠されていたわけではなかったので、子供でも簡単に中に入ることが出来ました。

 一階から七階までを繋いでいたので、中は結構広いのですが、窓が一つもなく、恐らく滅多に換気がされていなかったため、何とも不思議な匂いがしていました。良い匂いとも悪臭とも言えない真ん中の匂いです。最初にあげた例で言うなら、友達の家の匂いが近いかもしれません。

 敢えて一言で言うなら、灰色の匂いです。石と埃と冷たさと静寂と薄暗がりと寂しさが混ざった灰色の匂い。

 記憶の中では、良い感じの思い出になってしまっていますが、まあ、実際のところは、多分普通に埃臭かっただけでしょう。遊び好きな子供が使っていたくらいで、大人が使っているところを見た記憶もないですし。誰も使っていないから、誰も掃除しない。誰も掃除しないので、埃が溜まる。当たり前の話と言えば当たり前の話です。でも、印象に残ってしまっているので、もう一回くらい嗅いでみたいのですが、それだけのためにわざわざ昔住んでいた場所に行くのも憚られます。夢が壊れるのも嫌ですしね。

 あんまりないですか?もう一度嗅いでみたい微妙な匂い。そういえば、汗をかいた後の猫の匂いって、めっちゃ良いですよ。そういう枕があったら、絶対売れると思います。