1冊の本と眼球の裏側について

 「今まで読んできた本の中で、1冊だけ人に薦めるとしたら、どんな本を挙げますか?」という質問。こういう時、すぐに答えることが出来ません。状況にもよるでしょうが、こういう質問をすることで質問者が意図していることは「とりあえず、話を続けること」であって、「あなたが一番他人に読んで欲しいと思っている本が知りたい」ではない、ということが咄嗟に頭に浮かばないのです。

 すでに会話が別な地点に移動した後でも、話半分でぼんやりとその1冊の事を考えてしまって、ようやく人に話せるくらいにまとめても、もうその場に話を差し込む余地がありません僕が読んだ本のことをあまり覚えていない事が問題なのだとは思いますが。

 通常の会話で期待されている、上記の質問の受け答えというのは、いつでも話せるネタとして持っていて良いものだと思いますが、そもそも、自分に決定的な影響を与えた1冊というのがあるとして、果たしてそれを他人に説明出来るのだろうか、ということを考えています。自分の目玉で自分の目玉を見ることが出来るのかということです。

 文章というのは、書いた本人を表している分身、だとは限らないと思いますが、それでも、書いた人が書きたいと思ったこと、書くべきだと思ったことは書かれているはずです。それが正しいのか悪いのかとか、嘘か本当かとか、そういうことは個人的にはどうでもいいことだと思っています。すでに言葉は書かれていて、僕はそれを読んだわけですから。

 何が言いたいのかと言うと、書かれたものを読んだ後の僕が、書かれたものを読む前の僕と分けられるのか、ということです。もし、分けることが出来るのなら、自分が影響を受けた1冊というのを話すことは可能でしょう。でも、影響を受けるというのは、目の前で本を読むということではなく、目の後ろで本を読むということだ、と僕は思っています。話は眼球の裏側なので、もう目玉では見ることが出来ない。それを見ることが出来るのは目玉の裏側を見ている人だけです。それが誰なのかは知りませんが。

 そう考えてみると、僕は本を読んでいるのか、目の裏側の人に本を読ませてあげてるのか、分からなくなります。しかし、人に勧めた本というのは、得てして実際には読まれないものですから、文句も言わずに読んでもらえるというのは、それはそれでありがたいことかもしれません。