私の時間、言葉の時間(Ⅰ)

 とある文章を読んでいて、自分の読み方が言葉の示している速さを追い越しているな、と感じて以来、私と言葉の時間について考えています。書こうとしてみても、あまりにも書けないので、なにがそんなに書けないのかを書こうとしていますが、たぶん、何も言えることはないと思います。それでも、何かを言おうとして失敗することも、記録としては有用だろうと思って書いています。

 結論として言いたいことは、私と言葉の時間は違うのだけれど、その経過、流れ方、速度、そこに息を合わせることはできて、そこで言葉の文意を越えた何かとして伝わるものがあるのではないか?ということです。というよりも、言葉の上に乗らない意味というものが、もしも他人に伝わるとしたら、それは言葉の時間に思いを馳せることでしか成し得ないのではないか、という思いがあります。

 では、言葉の時間に思いを馳せる、というのはどういうことなのでしょうか。書かれた言葉というのは、書き手の全体的な時間と分かちがたく結びついています。そして、書き手の時間と私の時間は違うものです(誤解のないようにいっておくと、私と他人は違う人間なのだから、その人の身になって言葉を読む、ということがいいたいのではありません。私と他人が違うのは当たり前のことです。そして、私が他人の身になって読むことは不可能です。私は他人にはなれないのですから。)。時間の違いといっても、カレンダーや時計で計れるような、そういう時間の違いではありません。私や他人に流れている時間、その経過や流れ方、速さのことです。書き手がどういう時間の流れの中で言葉を紡いでいたのか、そして、その言葉はどういう時間の流れに身をおいているのか。もし、他者の時間というものを、想像する余地があるのだとしたら、おそらく、そこが余白なのです。

(続く)

 

わからないから、川に向かって叫ぶんや

 相も変わらず、わからないことが多い世の中ですね。皆様は無事にお過ごしでしょうか。無事であれば結構、無事でなくてもそれはそれで結構、そんなことには頓着せずに、季節は春を迎えようとしているようです。それは少し寂しいことではありますが、その寂しさが寄り集まって、春が駆動して立ち上がるなら、それはそれで悪いことではないのかもしれません。別に良いことがあるわけでもありませんけれども、そんなものでしょう。季節は人のことを見ているのかもしれませんが。

 わからないことがあるとき、それをわかりたいと思うときがあります。でも、わかるというのは何なのでしょうね。何かをわかる、何かを見つける、何かに名前をつける、それは私がしていることなのでしょうか。もちろん、私がいなければそもそもその現象自体が成立しないので、そういう次元においては、私がすべての始まりであり、全ての元凶だとは思います。ただ、わからないことをわかるのは私なのか、それとも、わからないことが私をわかるのか、そこで何か引っかかるものがあるのです。

 道を歩いていると、色々なものがあります。郵便ポスト、酒屋、コンビニ、人間、青空、名前も知らない鳥、猫、片方だけの手袋、電車、側溝、春の気配、そよぐ枝、車、陰と日向。そういうものには、名前がついています。ひとつひとつ、何を見たとか、これがあったとかいうことができます。けれども、私が見なかったもの、私が無視したもの、私がわからなかったもの、そういうものは道にごろごろ転がっている。何かをわかりたいというのは、そういうものたちに呼びかけたり、名前をつけたり、視線を向けることなのかもしれませんが、そもそもわからないということさえわからなくて、誰にも知られずに転がっているもの、そういうものに語りかけるためにはどうすればいいのでしょうか。

 ただ、ここで考えます。わからないものは、私にわかられたいと思っているとは限らないのではないか。別に気がついて欲しくない、声などかけて欲しくない、ただ道に転がっていたいのだ、そう思っているのではないか。そうすると、わかりたいという私の気持ちは、わかられたくないというものの気持ちを損なっていることになります。その線を越えてわかろうとすることは、私は悪いことではないかと思っています。だから、わかること、わかりやすいことが善いことであるようにいわれていると、不思議な気持ちになります。

 それでも何かをわかりたいときは、悪意を持ってわかろうとするしかありません。もちろん、あらかじめ傷つける、破壊する、損なうつもりでわかろうとするのでなくて、わかろうとすることにそれらがつきまとうことを、覚悟した上でわかろうとする、という意味です。悪意を持って悪いことするから許されることなんてなくて、悪意を持って悪いことをするから許されないのだ、そういう話なのだと思います。

 ここまでを前提とした上で、それでもわかりたい、言葉にしたい、気がつきたいとき、私はどうするべきなのでしょうか。それこそわからないことなんですけれど、もしかしたら、私がわかるのではなく、わからないものが私をわかることが、ひとつの道なのではないかとは思っています。そのためには待たないといけないのですけど、何もしなくていいわけではなくて、わからないものに呼ばれる私でいなければいけないのだと思います。わかる場所ではなく、わからない場所にいなくてはいけないのだと。

 わからなさを、川に向かって叫ぶくらいが丁度いいのかもしれません。海だと広すぎるような気がします。うまくいけば、わからないものが私に気がついてくれるかもしれませんし、向こうから声をかけてきたのならしめたものです。なんだか吸血鬼みたいですけど、悪いことをしているのですから、それはそれで構わないとは思います。私は、川に向かって叫んでいる人には、あまりお近づきになりたいとは思いませんけれど。

今すぐ言葉にしたくて、石に躓いて泣いた

 今すぐ何かを言葉にしたいときというのがあります。そういうときは、その何かを書こうとするわけですが、それがどんなものなのかは私自身わかっていないので、書いてみることでその形や感触をわかろうとするわけです。だから、書いているものが何かわからないで書いていて、書いたものを眺めて初めてそれが何かわかった気がしたり、相変わらずわからなかったりするわけです。そうした欲の根底に何があるのかと考えてみると、何かをわかりたいという気持ち、簡単に言うなら、好奇心・野次馬根性のようなものがあるのではないかと思います。

 この何かを知りたい気持ちというのは、なかなか曲者でして、よくよく目を凝らしたり、じっくりと耳を澄ませたりするのを邪魔するときがあります。わからない状態というのは気持ちが悪いもので、「今すぐわかりたいんだよ!」という気持ちになってしまうわけですね。その欲自体は、善くも悪くもないのだけれど、すぐに言葉にしてわかろうとすることで、取り逃してしまうものがあり、それが馬鹿にならないときがあるのだと思うのです。

 とはいえ、私の中の言葉にしたい欲を刺激するもの、というのは、言葉にしないと消えてしまうような気がしますし、実際、言葉にしないで忘れられたものなんて、私の中には(中というのも、おかしな話かもしれません。だってなくなってますものね。)たくさんあるのでしょう。すぐに言葉にしないと忘れてしまいますが、急いで形にしようとすると壊れてしまいます。それでも、言葉にして、その何かをわかろうとしないといけないのか、壊れることがわかっているのに、それでも形にして残さなければならないのか。私が何かを書くときに、もしも誰かから問われているものがあるとするならば、それを引き受けるつもりがあるのかどうか、なのかもしれません。

 ただ、そんな気持ちを持った上でも、何かを言葉にすることが、何かをわかろうとすることが、善いことなのか悪いことのなのか、私にはよくわかっていません。どちらかといえば、悪いことなのではないかとさえ思っています。悪いことと言うよりも、言葉のことをそれほど信用していないのかもしれません。私にとって、言葉というのは、道に転がっている石ころのようなものです。石ころだから、言葉には価値がないのだといいたいわけではありません。この石だと転んで痛い目にあえるかもしれない、と心のどこかで思っていて、恐らく私は躓きたいのです。

 誰かの通った道を歩いて石に躓くのか、知らない道を歩いて石に躓くのか、読むことは前者、書くことは後者に近いと思いますが、自分の書いたものを読んでいるとき、他人の言葉を読んで抜き書きしているとき、両者の区別は曖昧になります。どちらにしても、ずっと探しているものがあり、そこに至るための引っかかりや抵抗、そういうものとしてしか私は言葉を見ることができません。

 言い方を変えるなら、言葉はあくまでも私にとっては糧です。食物は眺めるものではなく、食べるものです。言葉を拝んで餓死をするつもりはない。あくまでもただ食べるだけです。そんなことですから、読む言葉も書く言葉も、そこに汲み取れないものがあると薄々気づいていながら、わかった気にしてしまう欲に逆らえません。それでも、その悪さを悪さとして受け止めて、周囲を窺いながら、おずおずと言葉を発することに、意味がないとは思いませんが。

 だから、急いで言葉にしようとして、石に躓いて泣くことは、私にとっては信じることのできるものです。その痛みや傷は、誰にも奪えません。私の石ころが誰かを躓かせたのなら、それはきっと悪いことなのだと思いますが、ごめんなさい、と言うしかありませんけれど。

しずかな時 リズムを刻む心音

青いい影ひとつ 自身に問う

その荷を背負い その荷を運んでゆくか

忘れられ ただそこにあったのだ

決して戻らぬ 彼方へ向かう憧憬が

道におかれた物へ 眼差しをむける人

道におかれた声へ 耳をかたむける人

おまえの言葉に 夢は歌う

明けない夜に生まれ

暮れない朝に立ち向かう

青いいひとつの魂よ

一度も見なかった夢を、私ではない誰かが思い出す

 私が一度も見なかった夢を思い出すのは、私ではないのかもしれない。そんな考えが頭をよぎりました。言葉にすると、当たり前のことかもしれません。別に、その誰かは誰だっていいです。人間でもいいし、宇宙人でもいいし、猫でも犬でも鳥でも、石ころでもいいです。大事なのは、私ではない何かであるというその一点だけです。私は、私が見る夢しか思い出せないのかもしれない。一度も見たことのない夢を、私自身は見たいと思いますが、それを見るのはたぶん私ではないのでしょう。

 ときどき思うことなのですが、私が見た夢というのは、私のものなのでしょうか。理屈としては、私のものであること以外ありえないのが夢というものです。私は、今まで自分が見た夢以外を思い出したことは、一度だってありません。ただ、本当にそうなのだろうか?とも思います。自分が見た夢のことを思い出していると、言葉にすること自体で夢を毀損していくように感じることがあります。これは別に夢に限ったことではなく、今の自分の気分のような、夢よりは確かに感じられると思われるようなことでもそうです。形にすると壊れていきます。壊すことでしか夢を言葉にする手段がないのだと思います。

 とはいえ、たとえ夢を壊して言葉をつくっても、それは絶対に人とは共有できないものです。私が見た夢を言葉にしても、それは夢そのものとは似ても似つかないものであるということでもそうですし、それが人に見られたところで、私が見たものと人が見たものは違うものである、ということでもそうです。あなたと私が同じものを見ている保証がどこにもないのです。そういう意味では、夢が自分のものではない、ということはありえないのかもしれません。人と共有できないのなら、自分のものでしかなくなる。

 ただ、私はここでどうしても駄々をこねたくなってしまいます。同じものを見ている保証がないのなら、同じものを見ていない保証だってないじゃないか、と。何かを形にせずにはいられないのは、何かを残したいというよりも、何かを忘れたい、ここに置いていきたいという感情なのではないのでしょうか。痕跡を残したいのではなく、もう持っていたくないのです、面倒くさいのです。人から見れば、どちらも変わらないのかもしれませんが。そうやって置いていかれたものがあり、それは誰の目にもふれるものとなりますが、誰もそれを見ることはなくなって、距離だけがどんどん離れていきます。近くのものはどうしたってよく見えますが、遠くのものはよく見えません。もはや、同じものを見ている見ていないというのが通じない程の距離、同じか同じでないか、そんなことが及びもしない隔たり。共有の外側に置かれた夢を考えてみてください。

 そこでふと思うのです、自分でも思い出せない遠く遠くに打ち捨てられた夢。自分のものか人のものか、夢かどうかも判然としないもの。その遠さ、隔たりによって思い出されなくなるもの。そこで終わってしまった夢。その地点ではじめて、きっと私の知らない誰かが、その夢を思い出すことができるのではないか、と。

殴られに行くと当然のように痛いけど、そこでUFOと邂逅する

 本を読むことについて考えています。

 読書をするということは、その語り手に殴られに行っているのではないか、と思うときがあります。もちろん、著者が人を殴ろうと思って語っているわけではありません(そういう著者もいるでしょうが)。あくまでも、私が殴らせているのです。売られてもいない喧嘩を買いにいっている。犬も歩けば棒に当たる。ふらふらしているのは常に私の方です。実際に、書評や感想なんかで著者に噛みつくという意味ではありません。書くことと同じくらい、読むことに能動的な意味があるのだとしたら、痛い目に遭わしてもらわずに何が読書か、と思うのです。殴ってもらえなければ、勝手にこっちが殴られてやればいい。

 語り手の思想や創作に影響を受けるとき、そこにまったく痛みが伴わないのならーーもちろん、殴られに行ってすかされることもありますし、優しく触れられて困惑することだってあるでしょうがーーそこには何のやりとりもなく、知り合いに会釈のひとつもするのとなんの違いもありません。もちろん、会釈は大事ですが、そういうことではないのです。読書というのは常に受け身的でありながら、常に能動的なものです。もしかしたらそうでないのかもしれないですが、少なくとも私はそう思いたい。

 わざわざ、自分から打たれに行っているのですから、当然のように痛いです。目からぴよぴよひよこちゃんが出るかもしれません。しばらく身体が動かなくなるかもしれません。でも、そこからなんです。倒れてボロボロになった身体でふと空を見上げたら、UFOとか見てしまうかもしれないんですよ。雀とか鳩とか布団とかと見間違えてたっていいんです。それは私が探していたものではないかもしれませんが、ここではないどこかからきて、不意に邂逅してしまった異質な何かです。それは良いとか悪いとかの外から、自分の見る景色を変えてしまうものです。

 もちろん、ずっと同じ景色を見たい、自分の見ている風景を共有したい、ということが悪いことだとは思いません。でも、痛みのない読書に一体どれほどの意味があるのか、とも思います。言葉で出来た傷の痛みーー世の中にはこんな痛みがあったのか、と感動したって、殴られた痛みに不満を持ったって、或いはこれは自分の痛みではないのか、と共感したって、その痛みの種類はどうだっていいのですがーーで、何かしらの跡がこの身に刻まれるわけです。それが幽霊のようにおぼろげに後からついてきたりもしますし、ショックで見てはいけないものを空に見てしまったりもします、それがすべてだとは言いませんが、それがないのなら、一秒後にも覚えていない雑談と何が違うと言うのでしょう。いや、一秒後には覚えていない雑談も、もちろん大事です。大事なんですけどね。

 それでも、私はUFOと邂逅したいと思っています。口をぽかんと開けて唖然としたいのです。